徳川御三卿って何?御三家と何が違うの?「晴天を衝け」徳川慶喜 【後編】

前回は、御三家の成り立ち・各家の特徴・有名な人物などご紹介しました。
今回は後編「徳川御三卿」についてご紹介していきたいと思います!

前編を読んでから今回の記事を読むことをおすすめします💓

徳川家康

日本人なら御三卿位知っておきなさい

目次

御三卿とは

第8代将軍 徳川吉宗が徳川家存続のために作らせた家系です。

「徳川宗武(むねたけ)」⇒田安家初代 (江戸城田安門内の屋敷を与えられた為)
「徳川宗尹(むねただ)」⇒一橋家初代 (江戸城一橋門内の屋敷を与えられたため)
として息子たちをそれぞれ徳川将軍家から独立した大名家にしました。

徳川吉宗

徳川家康の御三家を真似したよ

更に、吉宗の長男である第9代将軍「徳川 家重」が次男である「徳川重好(しげよし)」に清水門内の敷地を与えて清水家を創設したため、この三家を合わせて「御三卿」が成立しました。

くりぼー

与えられた屋敷の城門から取った名前なんだね

三家の当主が公卿(くぎょう)と称される職位に就いていたので御三卿と呼ばれるようになったそうです。

御三卿も、御三家と同じく徳川家の血統の保存を目的とし、徳川将軍家に跡継ぎが無い場合、御三家の中から後嗣(あとつぎ)を出す資格を持たせました。 

御三卿は御三家にも後継者を供給することになっていました。逆に御三家から養子を貰う事もあるので宗家・御三家・御三卿の家なら誰もが徳川家一族なのでどれだけ交換し合っても問題なし、という考えだったのですね

家の格は御三家に次ぎ、「徳川」姓を名乗ることや「三つ葉葵」の家紋を使用することが許されました。

御三卿の特色 他の大名との違い

御三卿は将軍家(徳川宗家)の家族・身内という認識であり、社会的にも経済的にも徳川宗家に大きく依存している存在で、独立した藩が置かれることはありませんでした。

御三卿の当主は常に存在している必要はなく、不在のままでも家だけが存続することが許されていたのも他の大名との大きな違いです。=明屋敷(あけやしき)

藩主が死亡して家督相続者を欠いた場合は藩が改易(身分の剥奪・領地の没収)されることが定められていたが、御三卿は藩では無く領地は幕府が経営屋敷地は幕府が支給家臣団は幕府の出向という形をとっていたため、家を潰す必要が無かった。

徳川吉宗

だから生まれた子供をみんな養子に出しちゃっても
問題無し。

御三卿

明屋敷になっちゃってもそのうち適当な徳川家の血筋を
養子にすれば問題ないからね。

徳川吉宗

御三卿はあくまで将軍の予備だから、
独自に力を持たせないようにしているよ。

徳川吉宗は尾張徳川家と対立していたので、御三家システムに危機感を感じ、将軍家と血縁関係が疎遠になってきた御三家とは別個の親族を藩屏として設けたと言われています。

そしてその家はあくまで将軍家の予備を目的としたものなので、独自の藩などは持たせずに全て幕府に依存させる形で存在させました。
⇒御三卿は領国経営や家政運営の必要が無いので、実質何もすることが無かったそうです。
それなのに立場は政治の担い手である老中や大老より上なので、幕府の政治に裏からちょっかいを出していたらしいです。その結果、将軍の跡目争いの絡む政争が激化したと言われています。

くりぼー

これは…
政治を担う老中や大老からしたらウザかったろうな…

田安徳川家

8代将軍徳川吉宗の次男・徳川宗武を家祖とする大名家

加盟の由来となった屋敷、田安邸は江戸城田安門内で清水邸の西である現在の北の丸公園日本武道館付近にあり、同地が田安明神(現在の築土神社)の旧地であった事からこの名がつけられました。

賄料領知10万石を武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6か国に与えられました。

宗武の息子である2代目治察が病弱で早世し、残っていた弟も養子行きが決まっていた為3代目を相続する事が出来ず、宗武の血筋は途絶えてしまいました。
その後十数年にわたり、明屋敷(当主不在)になったのちに一橋出身の斉匡が相続したため、以後は一橋宗尹の血筋が続きました。

くりぼー

田安家だけど血筋は一橋家なんだね

田安家から将軍を出すことはありませんでした

一橋徳川家

8代将軍徳川吉宗の四男・徳川宗尹を家祖とする大名家

家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にありました。

賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中の7か国に与えられました。

一橋家は御三卿の中で唯一将軍を出した家です
第11代将軍 家斉(いえなり)
第15代将軍 慶喜(よしのぶ)
 

また、養子を多く出したので18世紀末以降のほとんどの将軍と御三卿当主が一橋家宗尹の子孫で占められ、外様の大藩などにも一橋徳川家の血が入ることになりました。
一方で、一橋家当主自身は短命で子を残せない者が多かったため、幕末期には数多くの親藩が一橋家の血筋で占められていたにも関わらず、御三卿で宗尹(一橋家家祖)の子孫は田安家のみとなりました。
くりぼー

うーん…何やら複雑な事態に…

一橋家

他の家に行った者は子を沢山残したんだけどねえ…

清水徳川家

9代将軍徳川家重の次男・徳川重好を家祖とする大名家。
家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にありました。

賄料領知10万石を武蔵・上総・下総・甲斐・大和・和泉・播磨の7か国に与えられました。

清水家は実子のなかった初代の重好以来、維新期を越えて大正13年(1924年)まで実子による相続が皆無であり、将軍世子の弟ないし将軍の弟が養子入りして幼少で当主になった例が多い。加えて御三家に転出した当主が相次いだこともあって一時的な断絶を繰り返しており、御三卿の中で最も出入りが激しい家でした。

江戸時代に最後に当主となったのは、徳川慶喜の弟で水戸徳川家出身の昭武です。
昭武は「晴天を衝け」では板垣李光人さんが演じていますね!

晴天を衝け公式サイトより

しかし、昭武は慶喜の名代としてヨーロッパ外交に勤しんだ後、帰国後に水戸家の家督を継いでしまったため、清水家はまたも当主不在となりました。
そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩一橋藩を立藩したのと異なり、「清水藩」は立藩していません。

くりぼー

明治に入ってから
ちゃんと華族にはして貰えたよ

ココアを初めて飲んだ日本人?

【おまけ】
徳川昭武は留学中の日記の中に、1868年8月3日 (旧暦) の出来事として「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と記しており、これは日本人が初めてココアを飲んだ最古の史料記録だそうです。

最後に

前編の御三家と比べて御三卿は大分キャラが薄かったですね。(笑)

徳川宗家から独立した家とは言いながらも、皆すぐそこのご近所さん同士だし、御三家の名古屋城のような「あのお城の大名か~!」というような発見も無いですし。

御三卿は藩も持っていないし、徳川本家・将軍の親戚、分家という感じが強かったんですね
御三卿は当主が不在でも家を存続する事が許されている為、とにかく養子に出しまくります。当主ですら養子に行っちゃったそうです(笑)

なので、「徳川本家・将軍家の血筋の予備」という特色が御三家よりかなり強いです。

くりぼー

宗家・御三家の為に養子を出しちゃって
自分の家に当主が居ないって凄いよね。

御三卿同士で養子を貰ったり、御三家からも養子を貰ったり、とにかく徳川の一族だけで治めようとしていたんですね。

徳川家康

他の奴らは信用できん。

徳川家の凄い執念を感じました…!(笑)
徳川幕府があんなに長く続いたのも、こうした徹底的な血筋の保存があったからなんですね。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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